活動記録

雨タスサロン⑦:雨+すみだのはじまり(2017.7.12)
佐原滋元さん(向島百花園・茶亭さはら亭主)の語り

Webあまみず編集部

2017年7月12日(水)に開催された第6回雨タスサロンは、向島百花園・茶亭さはら亭主、佐原滋元さん(雨水市民の会理事)にすみだの歴史の話をしていただきました。

写真 寅とさくら(都指定有形文化財(考古資料)柴又八幡神社古墳出土埴輪よりhttp://bunkazai.metro.tokyo.jp/jp/search_detail.html?page=1&id=325)

写真 寅とさくら?(都指定有形文化財(考古資料)柴又八幡神社古墳出土埴輪よりhttp://bunkazai.metro.tokyo.jp/jp/search_detail.html?page=1&id=325)

今年は、向島区と本所区が一緒になって墨田区ができて70周年になりますが、約600年前(室町時代)には向島地域は川の真ん中(中州)にあり、本所地域はほとんどが海の中でした。今回は古くからある向島中心のお話になります。

今から約1900年前、西暦100年頃、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が相模から上総へ渡ろうとしたときに嵐に遭い、弟橘媛(オトタチバナヒメ)が身を投じて嵐を鎮めましたが、行方知れずとなりました。この弟橘媛を祭ったのが吾嬬(アズマ)神社です。628年には浅草の観音様が隅田川より示現しました。

770年頃には隅田川を渡る「古代の官道」が整備され、幅9~13mもある真っ直ぐな道が下総国府から武蔵国府まで整備されました。このころから戸籍制度が整備され、721年の下総国葛飾郡大嶋郷の戸籍に「孔王部刀良(アナホベノトラ)」と「孔王部佐久良賣(アナホベノサクラメ)」という記載があります。6世紀の後半に、柴又八幡神社古墳に寅さんに似た埴輪が納められ、通称「寅さん埴輪」(写真)と言われています。

860年頃牛嶋神社ができ、960年頃には隅田千軒宿(スミダセンゲンジュク)に多聞寺ができました。

図1 1500年頃の向島周辺図(「往古・隅田川河口図」(『五百年前の東京』菊池山哉/批評社より))

図1 1500年頃の向島周辺図(「往古・隅田川河口図」(『五百年前の東京』菊池山哉/批評社より))

鎌倉時代には、源頼朝が「鎌倉街道」を整備し、「下の道(現区道71号)」は「奥州街道」とも呼ばれ、江戸時代初期まで東海道から奥州への幹線路となりました(図1)。鎌倉時代から江戸時代にかけては、戦乱に明け暮れていたためか資料が少なく、実証されているエピソードが少ないのが残念です。

1590年、徳川家康は江戸に入城すると、隅田川の堤防の修築を行い、塩の確保のため小名木川の掘削を行い、1603年に江戸幕府を開きました。

1620年には日本堤の築堤を行い、1621年には新川通りや赤堀川を開削して、利根川本流を銚子に流す工事を行いました。また、1629年には荒川を締め切り、新しい河道を開削して入間川へ流下させました。1641年には関宿から野田に水路を開削し、現在の江戸川となりました。これにより、銚子からの内水路が完成し、江戸へ物資を運ぶために波の荒い外洋を航行しなくて済むようになりました。また、日本堤と墨堤の間を遊水地にして江戸の街を洪水から守りました。しかし、多聞寺があった隅田千軒宿は墨堤の外となり、村はなくなりました。多聞寺も現在の場所に移りました。また、隅田川の川辺では将軍家の鷹狩も行われ、1655年頃には御前裁畑が作られ、マクワウリや茄子などが栽培されていました。

昨年度、鐘ヶ淵プロジェクトを実施し、時代コスプレでパレードをしたり、御前裁畑の復活栽培展示なども行いました。

現在、多聞寺で雨水利用の農園を準備中。すみだの1700年のあゆみとともに、思いをはせていただきますよう。

おあとがよろしいようで。

写真 雨タスサロン「雨+すみだのはじまり」でドリンク片手に語る佐 原滋元さん(2017年7月12日)

写真 雨タスサロン「雨+すみだのはじまり」でドリンク片手に語る佐
原滋元さん(2017年7月12日)

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