2016.06.30
【寄稿】武蔵野三大湧水と50m崖線(がいせん)
やとじぃ平田 英二(水路たんけんクラブ主宰・石神井公園ふるさと文化館区民学芸員)
雨は太古の昔から降っています。山などに降った雨は川となって海までの長い旅を、大地に浸み込んだ雨は地下の川、地下水脈となって、一部は湧水として地表に現れます。このような連綿と続いてきた雨の旅は、大地を削り、起伏にとんだ地形を作ってきました。寄稿していただいた”やとじぃ”こと平田英二さんは東京都練馬区を中心に谷戸の調査をされ、当会が企画・運営の委託を受けている武蔵野市の水環境連続講座「水の学校」の講師もされています。今回は、雨の旅の軌跡を太古の昔までたどってみましょう。(Webあまみず編集部)
川はどこから流れてきますか?
こう尋ねると、全国的にみれば「山から」と答える人が多いと思います。
しかし武蔵野台地に大きな山はありません。それでも、台地を貫いて石神井川、神田川など何本もの川が流れています。
多少大きいのが、柳瀬川などです。
柳瀬川は、狭山丘陵から流れ出る川で、もともとの源流部は、宅部川(やけべがわ) と呼ばれました。多摩湖が造られて湖底に沈みました。狭山丘陵は、武蔵野台地で唯一、多少山らしいところです。しかし独立丘陵なので、そこから流れ出る川も水量はそれほど多くありません。
狭山丘陵からは、他にも空堀川など何本か川が流れ出ますが、これらは一応「山から流れてくる川」といえるかもしれません。しかし、その他の武蔵野台地を流れる川は、「わき水」から流れ出る川か、あるいは台地の上にふった雨を集めて流れる川です。後者は、晴天が続くと水がなくなり「涸れ川」と呼ばれます。かつての石神井川最大の支流だった田柄川が代表格ですが、みな暗渠にされました。
わき水から流れ出る川
涸れ川以外の武蔵野台地を流れる川は、わき水を水源にしています。そのなかで、比較的規模が大きな湧水は、標高約70mの崖の下と、約50mの崖の下に点在します。この崖を「70m崖線」「50m崖線」と呼びます。
70m崖線の下から流れ出る川の代表が、野川です。源流部は国分寺市の恋ケ窪で、そこの崖の上が標高約70mです。
石神井川の本来の谷のはじまりも、70m崖線にあります。小平市の鈴木小学校の校庭(写真2)が、みごとな谷戸地形で、その崖の上が標高約70m。武蔵野台地では最大級の旧石器遺跡として知られる鈴木遺跡があります。約3万〜1万数千年前の旧石器時代には、大量の水がわき、当時の人々のくらしを支えていたと考えられます。
70m崖線からの湧水量は、時代とともに減ってしまったようで、鈴木遺跡も縄文時代の遺物は、ほとんど出てきません。黒目川源流部の東久留米市「さいかち窪」も、ふだん水がなく、小平霊園のなかの雑木林に浅いくぼ地があるだけですが、何年かに一度「幻の池」が出現します。2015年夏から秋にかけて雨が多かったためか、9月頃、久しぶりに池ができました(写真3)。地下水位が一時的に上昇し、くぼ地の底から水がわくと考えられます。
谷頭と谷戸と窪
ちなみに、谷のはじまりの部分を地理用語では「谷頭 (こくとう) 」といいます。杉並区上井草には、谷頭 (やがしら) という旧地名があり、今は暗渠になった井草川のまさに谷頭にあたります。
谷頭に崖が切り立ち、行き止まりになった谷を「谷戸」といいます。ふつう谷戸と記しますが、「谷当」、また何々ヶ谷戸から転じたと考えられる「貝戸」「垣内」などの漢字も当てられます。『常陸国風土記』に出てくる夜刀神 (やとのかみ)も谷戸の神様のことです。また「谷津・谷ツ」「谷地・谷内 (やち・やうち) 」も、同系の地形を示すことばだと考えられ、関東・東北・中部地方に数多くの地名が分布します。
谷頭に崖が切り立っているのは、そこで水がわき、常に崖を浸食しているからです。土質がやわらかく浸食が容易な関東ローム層の台地だからこそできる地形です。(図1参照)
わき水がないくぼ地では、台地の上にふった雨水が集まって流れるため、切り立った崖をつくらず、くぼ地はだらだら〜
谷戸・谷津と窪・久保の呼び分けが一番はっきりしているのは、武蔵野台地東部です。練馬区内には22の「やと・やつ」地名があり、1ヵ所を除いて対応する谷戸地形が認められます。「くぼ」地名は19ヵ所あり、いずれも谷頭が不明瞭でなだらかなくぼ地か、出口がなく等高線が輪っかになった「すりばち凹地 (くぼち)」です。(図2参照)
谷戸というと多摩丘陵が有名ですが、そちらは100万年スケールで丘陵が浸食され海没・隆起を繰り返してできた地形です。しかし、町田市に久保ヶ谷戸という地名があるように、谷戸と久保の呼び分けという意味では、混乱がみられます。
50m崖線と武蔵野三大湧水
「50m崖線」は、比較的大きな湧水池をつくりました。武蔵野三大湧水と称された、井の頭池、善福寺池、三宝寺池がそれです。(図3参照)
50m崖線の崖の下で、武蔵野礫層と呼ばれる砂利の層が地表に露出しています。
武蔵野礫層は、氷河期に海が退くにつれて、古多摩川の河口デルタが、何本にも分かれて乱流しながら扇状地*1を形成していたころの川原石です。
すぐ下に粘土層があり、礫層の中に地下水脈ができます。もともとは多摩川の伏流水で、台地上にふった雨水も浸透し地下水を養っています。この地下水が50m崖線の下からわき出て武蔵野三大湧水池をつくりました。井の頭池の水面が標高約50m、三宝寺池が約45mです。(図4参照)
1960年代なかばまで、三宝寺池では、弁天(厳島神社)の西側にある谷頭の池底から水がぼこぼこわいているのが見えました。
残念ながら、武蔵野三大湧水は、1970年前後に相次いで涸れてしまいました。
*1扇状地:河川が山地から平地に移るところに、
50m崖線はどうしてできたのか?
50m崖線は、これまで扇状地*1 の「扇端 (せんたん)」と説明されてきました。
しかし、例えば甲府盆地の典型的な扇状地の扇端と比べると、あまりにも形状が異なります。ギザギザ入りくみ、リアス式海岸によく似ています。川で運ばれた土砂が堆積する状態からすれば通常、扇端は、次第になだらかになり、50m崖線のように急な崖にはなりません。そこが大きな川によって浸食されると、急な崖ができますが、その場合は、多摩川に削られた国分寺崖線のように、かなりまっすぐな崖になります。50m崖線の場合は、明らかに扇状地の扇形をなす等高線に沿って形成されています。
これは何なのか? ヒントは荒川崖線にあります。
荒川崖線は、約1万~5千年前ごろの縄文海進でできた海食崖の名残りです。押し寄せる海の波が岸辺をかき取られて崖ができました。崖の比高差は約20mと、50m崖線の約2倍ありますが、崖の断面形状や平面図はよく似ています。ボーリング調査の柱状サンプルを比べてみても、よく似たパターンをしています。どちらも崖下には、削られた崖の土や、河川によって運ばれた土砂が堆積した沖積層が広がっています。
氷河期といっても一様に寒かったわけではなく、一時的な温暖期が何度かありました。そのとき海面が上昇し、波に浸食されて海食崖ができました。陸が沈降してできたリアス式海岸によく似ているのは、このためです。
その後、再び寒冷化して海が退き、海食崖が取り残されて50m崖線になった……というのが、わたしの仮説です。小平市東部や国分寺市内を通る「70m崖線」も、同様にしてできたと考えられます。(図5参照)
武蔵野三大湧水ができたのはいつごろ?
約13万〜12万年前、現在より4〜5度、地球平均気温が高く、関東平野はほぼすべて海でした。下末吉海進 (しもすえよしかいしん)と呼ばれます。その後しだいに寒冷化し、海が退いていくにつれて、古多摩川の扇状地が形成されました。(図6参照)
その後、約8万年前には、練馬区東部や杉並区東部あたりに海岸線があったとされます。(図7参照)
このことは、地下鉄有楽町線建設の際、新桜台駅駅付近でイタヤガイ、ウチムラサキガイなどの貝化石が見つかったことから実証されています。
この約12万年前から約8万年前の間のいつ頃か、70m崖線・50m崖線の原形になった海食崖が形成され、その後、陸地化し崖線として姿をとどめ、その崖下から伏流水がわき出て、武蔵野三大湧水池ができた、と考えられます。
地球気温変動のデータや海面変動のデータをみると、このあいだに2度ほどやや高温で海面が上昇した時期がありました。(図8参照)
気温変化と海面変動には、若干(といっても何千年単位)の時間差があったようです。また、地盤の沈降もあるため、地域によって差があったようです。関東地方でどのように海面変動したか、さらに精査しないと確実なことはいえませんが、ごく大ざっぱにいって、石神井川が小平市鈴木町付近から流れはじめたのが10万年前頃。三宝寺池など武蔵野三大湧水池ができたのが9万年前頃だと考えられます。
武蔵野三大湧水の涸渇
武蔵野三大湧水は、1960年代の終わりから70年代はじめに、いずれも涸れてしまいました。
原因は、雑木林や畑の減少、地表の被覆、地下水くみあげなど、大くくりにいえば都市化の影響です。根本的には、小河内ダムによる多摩川伏流水の減少も影響しているはずです。
また、石神川沿いの遺跡分布からみると、約3万〜1万5千年前の旧石器時代には小平市付近、約6千〜4千年前の縄文中期頃には西東京市東伏見付近、その後1960年代までは三宝寺池と、何万年・何千年単位でみると、時代とともに湧水の多い地帯が下がってきています。
扇状地の真ん中は尾根状になっておりやや高く、川の主流路は時代とともに両端に追いやられます。古多摩川から追いやられた南側のはしが現多摩川、北側のはしが入間川です。地下水の主脈も両側に追いやられていきます。国分寺お鷹の道の湧水や、和光市白子付近で、今もたくさん水がわいているのはそのためです。そのあいだの中央部は、はしだいに乾燥化してきます。長い目でみれば、武蔵野台地内部の湧水が細っていくのも仕方がない一面もあります。
さらに追い打ちをかけるように、水道用の深井戸の管の周囲に詰めた砂利から地下水が抜け落ちていることが指摘されています(『地下水は語る』守田優著 岩波新書 2012)。
致命的だったのは、時間50mmの雨に対応できるよう、河川改修で川を4~5m掘り込んだことでした。その結果、川の水面のほうが池の水面より3m以上低くなってしまいました。これでは、池の水が地下をつたって川に流れ落ちてしまいます。(図9参照)
湧水復活の可能性をさぐる
現在、武蔵野三大湧水池は、いずれも深井戸で地下水をくみあげて補水しています。三宝寺池では石神井池(ボート池)の1本と合わせ、4本の井戸があります。深さ190m、途中幾層もの地下水脈から取水しています。
しかし、大雨がふると、翌日から1週間後くらいかけて、池畔の崖下のあちこちから水がしみ出て池に流れ込んでいるのが観察できます。白子川沿いのあちこちで今もみられる、崖線タイプの湧水*3と同じ性質の湧水で、台地上にふった雨が土にしみこみ川沿いや池沿いの崖下からしみ出てくるものです。川や旧湧水の分布から考えると、集雨範囲は半径0.5〜1km。不圧地下水とよばれ、崖の途中や下縁りからしたたり落ちます。石神井川や善福寺川でも、護岸の下縁りからわき出る湧水が今もみられます。
井の頭池では、2016年1〜3月に行なわれた「かいぼり」の際、池底におりる機会がありましたが、弁天付近の池底に武蔵野礫層が露出し、そこかしこから水がわき出ていました(写真4)。砂利のあいだの砂を押し分け、
50m崖線下から湧いていたかつての主湧水は、
いっぽう崖線タイプの湧水は、比高差がせいぜい5〜
現在の井の頭池の底からわき出ている湧水は、
これらのことを考え合わせると、武蔵野台地の広い範囲にわたって雨水の地下浸透を増やし、逆に地下水位をさげている原因を減らしていくことができれば、主湧水は無理でも、崖線タイプの湧水を増やすことは可能だと思います。根本的には小河内ダムをなくせれば、伏流水の復活にとってはよいのですが・・・
最後に付言すれば、三宝寺池や善福寺池のすぐ近くを通る外環道の工事が一部ではじまっています。大深度地下トンネルなので地下水脈を断ち切ることはないと都は説明していますが、排気口や脱出口が掘られると、その周囲を砂利で充塡することになります。すると、水道用の深井戸と同様に、そこから何層もの地下水が次々に下の層へと流れ落ち、地下水位を下げてしまいます。さらに東京都は「外環の2」と呼ばれる地上部一般道路まで造ろうとしています。これ以上、地表をコンクリートで覆うことは、地下浸透を増やそうとする努力を無にするものになりかねません。
これらのことを考え合わせ、さらに解明を進め、どうすれば武蔵野三大湧水を復活させることができるのか、みんなで知恵を出し合って、この地域の自然環境を次世代のこどもたちに伝えていきたいと思います。
1952年、立川市生まれ。2000年頃から川の跡をしらべ歩き、水路たんけんクラブを主宰。練馬区内を中心にその周辺区市を含め、川・用水の跡をほとんど踏破。武蔵野台地の東部、かつて近郊農村だったエリアを「江戸ノ背」と名付け、その自然・地形・歴史・文化などを調査・研究。
特に練馬区内にも多い「谷戸」の研究に取り組み、谷戸について語り出すと止まらないため「やとじぃ」のニックネームをもらい、本人も気に入って自称。
石神井公園ふるさと文化館 区民学芸員、練馬区文化財保護推進員。