2021.03.04
1994年夏、隅田川妖怪会議
Webあまみず編集部
1994年8月に東京都墨田区で開催された「雨水利用東京国際会議」は、延べ参加者が約8000人、海外からオランダ、タイ、ボツワナなど世界17カ国・地域からの出席がありました。この会議の実行委員会は、各地の市民が約700人、ボランティアで参加し、多彩多様な発表がありました。その実行委員会が母体となって1995年に雨水利用を進める市民の会(雨水市民の会の前身)が発足したのです。
現在、雨水市民の会25周年記念として、オンライン座談会を実施しています。1月31日に実施した第2回「雨+雨水利用東京国際会議」では、当時実行委員会で活躍した方々から貴重なお話を伺いました。
この座談会の中で、佐原滋元さんが話された「雨水ランド」について佐原さんから資料を提供いただいたので、みなさんにその一部をご紹介します。この内容は「空と海と大地をつなぐ雨の事典」(2001年発行・レインドロップス編著・北斗出版発行)の出版につながっていきますが、その中では取り上げなかった「妖怪会議」で、雨や水に因んだ怖ろしくもちょっと惹かれる妖怪たちが地球環境への憂いを語った内容です。妖怪の訴えは今はさらに深刻になっているのではと思えます。なお、当時の妖怪の姿は消えてしまいましたが、今回Webあまみず編集部でイメージし直したものです。
発表した妖怪たち
空に赤く輝く赤牛(あかうし)は汚れた雨をきれいにしたい
僕は、冬の星座・牡牛座の右目、赤く燃えるように輝くアルデバラン(畢(ひつ)、あめふり星とも言われる)から遣わされた救助隊だ。人間たちの浅はかさで、雨が酸性化し、いのちを育み豊かさをもたらすはずの雨が、かえって枯らしていると、宇宙のかなたにも聞こえてきた。放っておいては青い地球が損なわれかねないので、急遽やってきた。
日本へ来るのはこれで二度目。最初は、牛島様の牛頭天王、すさのおとなって顕れて、八岐大蛇を退治し、洪水をしずめた。こんどの酸性雨、地球規模の雨の危機は、私の手におえるかどうか自信がないが、東京の墨田には、雨を有効利用しようとがんばっている人たちがたくさんいるから、手をたずさえて、雨の汚染に挑みたい。
暗闇があってこその妖怪・天狐(てんこ)だ
昔は昼間でも、井戸の底などから、星のきらめきを見ることができた。しかし、赤牛さんも言ってたように、東京の空は汚れた大気に包まれている。おまけに夜は、人工照明が街中にあふれ、天空まで照らさんばかりの明るさ。これじゃあ、星座も、天の川も、流れ星の天体ショーも見ることはできないだろう。それに、毎日塾通いの忙しい君たちには、星が降るのを見ることができたとしても、眺める暇はないかもしかないがね。
ぼくらの仲間が時々灯す狐火や狐の嫁入りは、暗闇のなかでこそ、径しく、おどろおどろしい。でも最近は、まちからもれてくる明かりに闇がかき消され、灯しがいがなくなってしまっている。ぼくら狐以外の妖径たちだって、暗闇がなけれは出没しようがないだろう。闇は、人間たちの想像力の源泉でもあったのではないのか。
それなのに、都会の人間たちは闇を避け、なにもかも明るみにさらけ出したがるのだろう。それも、地球上の限りあるエネルギー源を使い果たしながらである。
あれだけの技術文明を誇り、原子力や化学物質でぼくらを震え上がらせるほどの人間たちなのに、それでも暗闇がこわいのだろうか。ぼくら妖怪たちのこの疑問を、どうしても解き明かしたくて、この妖怪会議にやってきた。
東京ではきんと雲がもくもくと湧かないと、斉天大聖(せいてんたいせい)
「西遊記」の話は、君たちもよく知っているだろう。その主人公の孫悟空こそ、この俺さまよ。
常世にある花果山の頂きの石から生まれ、山奥の水源地、水簾洞に住み着いて、沢山の猿を従え、美猴王と名乗っておった。仙術を究めて、菩薩さまの一人から変化の術を授かり、孫悟空という名もいただいた。天上界にも知られる身となったのをいいごとに、斉天大聖などと名乗って、威張りかえり、乱暴狼藉したい放題。ついに天帝さまの怒りをかって、五行山の岩の隙間に閉じ込められてしまった。その後知っての通り、天竺へお経を受けに行く三蔵法師さまに助けられ、天竺への旅の守護役をつとめあげた。
俺さまの得意術の一つが、きんと雲を駆っての飛行である。光の速さには及ばないけれども、一瞬にして9000キロを行くことができる。日本へだってひとっ飛び。ただ最近は、逆に日本からはひとっ飛びというわけにはいかなくなっている。肝心のきんと雲がうまく湧かないのだ。きんと雲は垂直に湧く入道雲の一片なのだが、日本の、とくに東京の上空では、雲がたなびきやすくて、入道雲が湧きにくい。原因は、夕立が小気味よく降らなくなっているのと同じである。
人間界と常世の通路が人間によってコンクリートで塞がれた霊亀(れいき)の訴え
亀は万年、鶴は千年というぐらい、もともと長寿であるうえに、時間と距離を超越した世界である常世と、始まりと終わりのあるこの世を、年中行ったり来たりしているから、いっこうに歳をとらない。浦島太郎を常世に案内したのは、現世で数えると千数百年前になるが、私にとってはつい昨日のことだ。その昨日と今日との間に人間どもは、そこいらじゅうの地下にあった、常世への入口を、コンクリートで塞いでしまいおった。そこが常世につながっているとは、人間どもは知らないから、意図的にではないと思うが、困ったものだ。
昔の墨田は縦横に掘割がめぐっていて、その水底に常世に通じる入口があって、河童も出没できた。隅田川にしても、今のようにヘドロも積もっていない時代には、常世との往来が妨げられることもなかった。私を祀ってくれている水神の杜、隅田川神社にちょくちょく立ち寄れたし、浅草寺に観音菩薩のメッセージを届けるのにも苦労はなかった。
地下鉄、上下水道の管、建物の基礎や地下室などの建設で、やたら地下を掘り返し、工業一途、便利さ一途で地下水を汲み上げ過ぎ。その結果、地盤沈下を引き起こし、東京の地下水脈はメッタメタだ。よい地下水脈は人間にとっては身近な水源、私にとっては常世への通い路。このままにしてはおけない。
日本の水辺を返して!蛙を守って!代表してヘケトが語る
都会からつぎつぎと水辺が消えて、私達の住処は、道路脇の側溝と、岸のない川に追いやられてしまいました。その水底は、異臭を放つヘドロで埋め尽くされ、場所によっては有毒ガスさえ発生しています。しかも、ちょっとの雨で氾濫します。都市洪水です。卵を産みつけられないだけでなく、うかうかしてると、身に危険が及びます。氾濫から逃れるために、雨を予知できる私達は、側溝や岸のない川から這いだして、避難を始めるのです。ところが、途中で、道路という、自動車の川を渡らなければなりません。ところが、これが命がけでして、どれほどの仲間の命が犠牲になったことかしれません。
しかも、路上に私達の轢死体が転がっていても、人間たちは哀れみもせず、ほったらかしにして。やがて、天日にさらされて、カラカラにひっかっらび、ちぎれて側溝や岸のない川の藻屑と消えます。
日本の明日を担う君たちに訴えます。私達に、水辺をかえしてください。すぐ゙にそれが、できないのなら、せめて、私達の安全を保証してください。ゲロゲロ。ゲロッゲロ。
白鬚(しらひげ)、都市型洪水を語る
今、蛙君が言った、都市洪水、こいつは人間どもの罪業じゃ。
わしも、白鬚水と呼はれる大洪水をたびたび引き起こしてきた。白鬚水は、土を肥えさせ、沃野をもたらすための洪水だったのじゃ。ときには、自然のルールを犯したものどもへのお仕置として、白鬚水を起こしたこともあるがの〜。古代エジプト文明が数千年にもわたって栄えることができたのは、ナイル川の定期的な氾濫のおかげなのじゃ。
もちろん、洪水には犠牲もともなった。せっかく拓いた農地や、育てた農作物、築いたまちを呑み干し、押し流した。だからわしは、心がけの良い人間には予告して。難を避けさせたりもした。
目先の利益だけで考えると、洪水は有難くないだろう。だから、せっせと治水に精を出してきたのも、分からなくはない。でも、洪水が無かったら、君たちの住んでいる墨田の地面もなかった、ということを、よく考えてほしい。一方の都市洪水は、人間どもがまちをアスファルトやコンクリートで覆い尽くして、自然にあだなした報いであって、自業自得と知るべきじゃ。
海の守神で霊獣の摩竭魚(まかつぎょ)、「海を汚さないで」
摩竭魚は、インドの人たちによって、ワニの頭に渦巻く胴体をつけて想像された、霊獣が彫られている。ワニのなかには体長が10メートルに及ぶイリエワニと、呼ばれる種類がいる。このイリエワニは、大海原を泳ぎわたる。インドネシアやニューギニアには、このワニにご先祖様が籠もっていると考えて、崇め、危難除けのお守りに、全身にワニの刺青をして暮らしている人もいる。
日本にはワニはいないが、ワニを祀っているところはある。香川県の金比羅神社だ。海上交通の守り神として、漁師や船人の信仰を集めている。
私の役割は、大海の豊穣を天空に向けて吹き上げること。その私からの人間たちへのお願いは、もうこれ以上、海を汚さないでほしいということ。その一言につきる。方法は、賢い君たちにまかせたい。
人間が作ったものを嵐は壊すけど、自然に戻すことだと雷鳥(かみなりどり)
背丈は10キロ程だが、羽を広げると1000キロにもなる。古代の中国で鳳凰と呼ばれた台風をもたらす巨鳥は、ぼくの仲間だ。つまり、ぼくの仲間は、日本の君たちのところへも、年に何回も飛来していて、すっかりなじみの間柄なんだぜ。
でも、君たちには、イギリスのテレビ人形劇「サンダーバード」から、ぼくを思い起こしてもらったほうが早いかもね。あの地球救助隊の秘密ロケットの名前は、ぼくに由来しているんだよ。おっと、テレビのサンダーバードは格好いいし、危難から人を護ってくれるけど、台風をもたらすサンダーバードはなあ~。なんて思ったんじゃないの?確かに、毎度大災害をもたらすわけだから、嫌われてもしかたないね。でも。一つだけ承知しておいて欲しい。ぼくらがもたらす台風や大雨は地球の深呼吸なんだ。空気の入れ換えもあるが、自然に逆らって作られたものを、また、元の姿に戻すのも、ぼくらの役割なんだ。
今は嫌われ者でも和邇(わに)を畏れ崇めた昔の人たち
おなじワニでも、摩竭魚どんは、口の大きなワニ、おいらのほうはサメやフカの仲間だよ。当時は実物のワニが、渡ってこなかったから、日本で、海の暴れん坊でしかないおいら達を、ワニにしてしまったに違いない。
でもよ。おいらたち、人間さまがいうほど暴れん坊じゃあねえぜ。大昔、因幡の浜で、白兎の皮をひんむいたのは、ありゃ、兎が嘘をついたからで。悪いのは、兎公のほうなんだぜ。
それをよ。人間さまは自分たちの海での乱暴狼藉を棚にあげ。ほおじろざめ、人食い鮫って決めつけてやがる。
でもよ。伊勢神宮の矢野憲一先生が、「サメは、ほんとうにこわいのか」って本を書いてくれて、ちっとは救われたような気分だけどよ。その伊勢神宮の別宮にはよ。毎年夏に南洋から、おいらの仲間が七匹やってきて、浜辺で蛙や蟹に変身してお参りしてるんだぜ。地元じゃあ、海神の使い、「七本鮫」って呼んでいる。
ほかにも、神として祀られている和邇がいる。品川、鮫洲の明神様は、おいらの仲間の肉を酢味噌にして食らって、伝染病にかかり、これに懲りて、おいらたちを祀ったものだ。沖縄などでも、おいらたちに祟られると、大津波になるってんで、おいらたちに危害を加えなくなったんだよ。
永遠の象徴、ウロボロス、蛇・水の神として環境問題を質す
今、私は自分の尾っぽを噛んでいますが、尾っぽから胴へと、だんだん噛んでいって、頭の先まで、つまり、噛んでいる口まで噛んでいったら、その先は、どういうことになると思いますか?
西洋の人々は、私の姿絵から、大地をとりまく海を連想しました。果てしなく続く海をどこまでも進むと、また元に戻りますものね。永遠性、限りない循環の印ととった人もいました。たとえば雨は、大気中の、水蒸気が雲の粒を結びます。その雲の粒が、やがて雨粒となって地上に降り注ぎ、水となって草木や土を潤し、さまざまな命の水となります。さらに、水流となって海に注ぎ、蒸発して水蒸気に還り、再び雨となる。この循環が限りなく繰り返されて、水と、いうものが存在しています。
自己完結、自己充足を意味するとした人もあります。その意味では、雨水利用国際会議の人達が主張している、水源自立の象徴でもあるわけですね。消滅の印だと見た人もいます。地球そのものを表していると受け取った人もあります。
難しい話になってごめんなさい。でも、君なりに考えてみてほしいな。エコロジーとか、水の循環とか、大気汚染とか、資源リサイクルなどについての考えが深まると思うよ。君は、豊かな繰り返しを選びますか?それとも、消滅を選びますか?