ひと・市民

辰濃和男さんを偲ぶ 〜山本耕平さん

山本耕平(雨水市民の会 理事長)

著名なジャーナリストであり、当会の初代会長であった辰濃和男さんが、昨年(2017年)12月6日。享年87歳で亡くなられました。雨水市民の会の広報である「Webあまみず」への掲載が大変遅れましたが、ここに、辰濃さんと共に活動をしておられた、山本耕平さん、村瀬誠さん、人見達雄さん、佐藤清さんに「辰濃和男さんを偲ぶ」文を執筆していただきました。辰濃さん、ありがとうございました。ご生前を偲び、哀悼の意を表します。(Webあまみず編集部)

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辰濃和男さんは、1995年に墨田区で開催された「雨水利用東京国際会議」の実行委員長を務められ、実行委員会を母体として発足した「雨水利用を進める市民の会」(98年「雨水利用を進める全国市民の会」と改称)の会長に就任されました。

辰濃さんは朝日新聞の「天声人語」を1975~88年の約13年間執筆されました。その中でたびたび自然や環境のことを取り上げ、墨田区の国技館や下町の雨水利用を賞賛されました。辰濃さんのお考えの基調にあるのは、「自然との共生」ということだと思います。この地球は、あるいは世界は、人間が中心ではない、という思想ではなかったかと思います。雨水の「利用」という言葉には「人間の自然に対するエゴが感じられる」と言われ、「雨と共生する」という言葉をよく使われました。

その意を受けて2003年に「雨水市民の会」と改称するとともに、徳永暢男さんに会長のバトンを渡されました(2005年にNPO法人となり、徳永暢男さんが初代理事長)。その後は顧問として、会の精神的な支えとなっていただきました。

97年に沖縄市で「雨水フェアin沖縄」というイベントを開催したことがあります。沖縄は初めてのメンバーもおり、半ば浮かれた気分もありましたが、辰濃さんからは「これを機会にしっかりと沖縄のことを学びなさい」と言われ、ご自分が取材された復帰運動や米軍基地問題をはじめ、沖縄の様々な出来事を教えていただきました。日本人として沖縄の歴史を共有せよと言われ、ヤマトンチュー(大和人=沖縄の人がつかう本州の人という意味)のわれわれは、少なくとも沖縄に対して謙虚であれと言われました。その後個人的に沖縄にはたびたび行く機会がありますが、基地問題で揺れる現在の沖縄を訪れるたびに辰濃さんのその言葉を思い出します。

私たちは辰濃和男さんから多くのことを学びました。体調を崩されてからも、一度会のメンバーにぜひ会いたいという連絡をいただいており、私たちも機会を待っておりましたが念願は叶いませんでした。辰濃さんの残された数々の遺訓を胸に、これからも活動を続けていきたいと思っております。心より感謝申し上げるとともに、衷心よりご冥福をお祈り申し上げます。

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