活動記録

天水桶里帰りプロジェクト 江戸の時代(とき)から受け継がれる天水桶、生まれ故郷へ・・・

大西 和也(世田谷天水桶里帰りプロジェクトメンバー、Webあまみず編集委員)

嘉永六年鋳造の天水桶

写真1 松田さん宅の玄関脇に置かれた天水桶

写真1 松田さん宅の玄関脇に置かれた天水桶

「天水桶(てんすいおけ)」は、江戸時代、防火用水として、また飲用水や打ち水として天水(雨水)を溜めて利用するために作られた桶です。まちの辻々や店先におかれて、人々に利用されてきましたが、近代になり消火栓や水道に役目をとって代わられ、今では、神社仏閣に青銅や鉄製のものを見かけるくらいで、街中で目にすることはなくなりました。

今や貴重品となった天水桶が、東京都世田谷区の松田さん宅の玄関脇に置かれていました(写真1)。直径1メートル、高さ1メートルの鋳鉄製で、嘉永六癸丑年*1正月吉日、江戸深川、御鋳物師、太田近江大掾藤原正次*2との銘が刻まれ、松田家先祖代々受け継がれてきました。調べてみると、この太田近江大掾藤原正次が鋳造した天水桶や梵鐘の多くは、重要文化財に認定されています。

なぜ、そんな貴重な天水桶が松田さん宅にあるのでしょうか。もともと松田さんの先祖は、江戸本所石川町で味噌醤油問屋を営み、幕府と直接商いを行う御用商人でした。その傍ら、銅座の役割も任されており、天保8年(1837年)、本所横川町(現、墨田区石原)に創設された別段古銅吹所*3の運営も担うこととなりました。この頃、松田さんの先祖は、“火事と喧嘩は江戸の花”と称されるほど火事の多かった江戸の町で、火事から店を守り、暮らしを守るために天水桶の鋳造をお願いされたのでしょう。その当時かなり高価なものだったと思われますが、それほどに松田家にとって天水桶は重要なものだったに違いありません。

写真2 墨田区石原にあったまつだ醤油味噌店(明治時代)。左手前の橋は紅葉橋。

写真2 墨田区石原にあったまつだ醤油味噌店(明治時代)。左手前の橋は紅葉橋。

その後、明治時代になって銅吹所は閉鎖され、味噌醤油の製造販売「まつだ味噌醤油店(商標:イゲタ松)」として商売を続けていました(写真2)が、大正12年(1923年)の関東大震災で発生した火災により店を焼失、住居は目黒へ移転しました。横川町の店舗は再建されましたが、昭和20年(1945年)の東京大空襲により再び焼失してしまったため、店をたたみ、住居も目黒から現在お住いの世田谷へ移転。松田家の天水桶は、江戸の時代より、松田家の暮しとともにもあゆみ、本所横川町から目黒、目黒から世田谷へと移設され、160有余年、松田家の暮しを見守ってきました。

天水桶里帰りプロジェクト始動!

(上)写真2 天水桶を横にして転がし、車まで移動 (中)天水桶のお化粧直し (下)祭りの山車のように鳩の街を練り歩く天水桶

(上)写真3 天水桶を横にして転がし、車まで移動
(中)写真4 天水桶のお化粧直し
(下)写真5 祭りの山車のように鳩の街を練り歩く天水桶

この天水桶を、誕生の地である墨田に里帰りさせてあげたいという話が、松田さんから山本理事長に舞い込んできました。松田さんは、世田谷区で湧水の保全等に係る団体で活動されており、そのお仲間から当会のことを聞かれ、墨田にそんな団体があるなら、天水桶を寄贈するので、ぜひ里帰りを実現して欲しいと雨水市民の会に託されたのです。

当初戸惑いもありましたが、何はともあれやってみよう!と“世田谷天水桶里帰りプロジェクト”を銘打って、移設の準備や移設先の検討に入りました。移設先候補は、議論がいろいろありましたが、4月に新しい一歩を踏み出した当会事務局の前に設置し、当会や鳩の街に訪れる多くの方々に見てもらうおうということに落ち着きました。

5月4日、移設作業第一弾。山本理事長を筆頭に、松本副理事長、伊藤事務局長、山田岳さん、助っ人として建築と雨水利用の専門家であるサンエービルドシステム(株)の前田嘉人さんにもお手伝い頂き、松田さん宅から天水桶を運び出し(写真3)、表面の錆落しと再塗装を行いました(写真4)。天水桶全体を緑青色に塗装し、さらに表面に刻まれた一文字一文字に金色の塗装を施し、なんとか見栄えよくお化粧直しができました。天水桶を安定させて置くための、井桁の架台も作成しました。

5月15日、移設作業第二弾。お化粧直しの終わった天水桶をいよいよ事務局前に設置です。事務局のある鳩の街は、商店街で人の往来も多い上、道路幅も狭く、長時間車を置いておくことが難しく、加えて午後4時から7時までは車両の進入禁止のため、近くのコインパーキングに車を停め、そこで天水桶を台車に乗せ替えました。天水桶を乗せた台車を、さながら祭りの山車のように、薄暗くなった鳩の街をゆっくりとゆっくりと事務局まで押していきました(写真5)。なにせ、直径1mメートルの天水桶。行き交う人、商店街の人、みんな「なんだろう?」です。人々の好奇の眼差しの中、天水桶は事務局へと辿り着き、井桁に組んだ架台の上に5人掛かりで据え付け、作業は無事完了。天水桶は、ずっと昔からそこにあったかのように、鳩の街に溶け込んでいました。

 時代(とき)を越え、地域を越え、さらに…

写真5 雨水市民の会事務局前に鎮座した天水桶(左)

写真5 雨水市民の会事務局前に鎮座した天水桶(左)

江戸の時代より、時を越え、地域を越え受け継がれてきた天水桶は、事務局を移転し、新たな気持ちで一歩を踏み出そうとしている雨水市民の会と一緒に鳩の街という新たな土地で、新たな時を刻み始めました(写真6)。

今年3月、昨年施行された「雨水の利用の推進に関する法律」の基本方針目標が定められ、雨水活用新時代の幕開けと関係者の中で囁かれています。奇しくも、明治維新の幕開けとも言えるペリー来航の年に誕生した天水桶は、雨水活用新時代の幕開けに、時代を越え雨水市民の会のもとにやってきたのだと思えてきます。今年発足20周年を迎える雨水市民の会にとって、“ペリー”となるかどうかは、これからのお楽しみ…。

雨水市民の会もこの天水桶のように、時代を越え、地域を越え、雨水活用を広めていきたいものです。

この世田谷天水桶里帰りプロジェクトに、多大なるご協力を頂いたサンエービルドシステム(株)様、会員の皆様に対し、この場をお借りし、厚くお礼申し上げます。

 

〈参考文献等〉

近代日本の伸銅業 ―水車から生まれた金属加工」(産業新聞社)

2度も焼けた下町 ある『蔵』の物語」(東京新聞1995年9月18日記事)

 台東区公式ホームページ

 Wikipedia

 

 

*1 嘉永六癸丑年:1853年。マシュー・ペリー率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航した(いわゆる黒船来航)年。

 

*2 太田近江大掾(おおたおうみだいじょう)藤原正次鋳物師(いもじ)の太田家は、江戸時代を通じて活躍し、代々、太田六右衛門と称しました。太田家は辻村(滋賀県栗東市)の鋳物師でしたが、寛永17年(1640)に江戸芝田町(港区)に移り住み(後に深川に移転)、以後江戸で活動しました。「釜屋六右衛門(釜六)」の名で知られ(『江戸買物独案内』)、享保2年(1717)には幕府の「御成先鍋釜御用」を命じられました。延宝6年(1678)銘の銅鐘(厚木市聞修寺)を初見として、幕末の文久2年(1862)銘鉄水盤(港区金比羅神社)まで、およそ200年間に80例以上の作例が知られています。(台東区ホームページより)

 

*3 別段銅吹所古銅や銅屑類を集めて再生する施設

 

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