活動記録

すみだ北部 ぶら~り 雨水散歩

高橋朝子(Webあまみず編集部)

3月26日(土)は、桜が咲き始めていましたが、花冷えが続く寒い日でした。午後1時30分に東武スカイツリーラインの曳舟駅に集まったのは、総勢10名。案内人は、地元の一寺言問を防災のまちにする会(通称「一言会」)の阿部洋一さんです。

曳舟駅→路地尊「はとほっと」→雨水市民の会事務局→一寺言問集会所→ (地図1

路地を抜けて水戸街道をわたり、まずは鳩の街商店街(*1)の一画にある路地尊「はとほっと」(写真1)へ。手押しポンプのパッキンが壊れて水が汲めなくなっていました。阿部さん曰く、「役所が修理するんだけど、役所も予算やらなんやらでね…。作られたばかりのころは路地尊の取材が多く、子どもたちに雨水を汲ませるシーンを何回も撮ってました。マスコミ慣れした子どもたちも30代です」。路地尊は、路地の安全を守るシンボルとして、近所の建物の屋根から雨水を集め、地下のタンクに溜めて、手押しポンプで汲み上げる仕組みです。はとほっとは、1992年に作られ、地下に3トンの雨水タンクがあります。

同じ商店街にある雨水市民の会事務局(写真2)に寄りました。ちょうど当会が運営するイベントカフェ「雨カフェ」(*2)を開催しており、珈琲の匂いに誘われ、座ろうとすると、「今日は先が長いのでまたにしましょう。」と企画担当の柴早苗理事。心残りでしたが、歩きだしました。

次は一寺言問集会所(写真3)です。軒を連ねた路地の一画にある不思議な空間です。広場に小さな築山、その頂には「要石」と称する丸い石がありました。防災まちづくりで活動していた役所、大学、そして下町の住民たちが協議して1996年に作った広場です。その住民グループは一言会として(阿部さんもその中心メンバーです。)現在も地域に根差した活動をしています。集会所には路地尊も設置され、地下タンク20トンに雨を溜め、手押しポンプやトイレに利用されています。

(左)路地尊「はとほっと」で説明する一言会の阿部洋一さん (中)雨水市民の会事務局で雨カフェを担当している小谷久美さん、溝口いづみさん (右)一言会集会所は東京スカイツリーのビュースポット。誰もが路地尊の手押しポンプで雨水を汲み出せるので、密集したまちでは心強い防災の拠点である。

(左)写真1:路地尊「はとほっと」で説明する一言会の阿部洋一さん
(中)写真2:雨水市民の会事務局で雨カフェを担当している小谷久美さん、溝口いづみさん
(右)写真3:一寺言問集会所は東京スカイツリーのビュースポット。誰もが路地尊の手押しポンプで雨水を汲み出せるので、密集したまちでは心強い防災の拠点である。

*1  鳩の街商店街:終戦直後は赤線地帯であったが、生鮮食料品や生花店など向島の料亭街へ納める商店も多く、商店街として賑わった。しかし、料亭が衰退していくと同時に、商店街も街の高齢化が進み、シャッター街となりつつあった。若いクリエーターや芸術家を招き、レトロな昭和の風情を活かしたリノベーションやイベントで活性化を図っている。

*2 イベントカフェ「雨カフェ」:NPO法人雨水市民の会が運営するイベントカフェ。2016年2月末に閉館した、すみだ環境ふれあい館のその後にむけて「すみだから、これからの環境啓発・学習を考えるWS」が中心となり、昨秋から5回のワークショップを開催。参加した市民が環境について学ぶ「場」や「機会」を模索してきた。「つなぐ場づくり」、「すみだから、ふしぎ探検隊」の結成、「人と自然をつなぐ、発見の場づくり・まちなか農園」の設置を目指す活動など、互いに連携しながら始動しつつある(すみだから環境学習を考えるワークショップ)。「つなぐ場づくり」として雨水市民の会事務局を活用し、さまざまな人が集まるイベントやワークショップ、絵本の読み聞かせなどを予定しており、「雨カフェ」もその一環。

てらじま広場・和菓子店の路地琴→向島百花園→路地尊「会古路地」→ (地図2

第一寺島小学校に隣接し地蔵坂通り商店街に面して、てらじま広場があります。地域の住民が草花を丹精込めて育てており、水やりをするために連結された天水尊(*3)が2基が置いてあります。阿部さんは、「毎日手入れして水やりしているから、天水尊の水もすぐなくなってしまうんですよ。」と苦笑い。てらじま広場の向かいの和菓子屋さんは、店先を季節の草花で飾っています。そこに路地琴(ろじきん)(写真4)があります。10年前にリノベーションを手掛ける若い芸術家たちが制作した小さな水琴窟です。紹興酒の甕を再利用して作られ、肩部分に竹の筒が刺してあり、上から少しずつ水を注ぎ、竹筒の穴に耳をあてると、心地よい音が聞こえます。

商店街を離れ、路地をいくつか曲がると向島百花園(写真5)です。文花元年(1804年)、江戸の商人、佐原鞠塢(さはらきくう)が文人墨客の協力を得て梅の苑を開園し、四季折々の花が絶えることがない庭園として江戸庶民に愛されていました。明治以降は洪水や戦災などで荒廃しましたが、東京市営として再興し、今も風流な催しが四季を通じて行われています。百花園の中にある茶店、佐原亭の店主、佐原滋元さんは、雨水市民の会の理事でもあり、阿部さんと同じく一言会の中心人物でもあります。今回は百花園の中には入りませんでしたが、園内には天水尊や路地琴が設置してあります。

向島百花園の目と鼻の先に路地尊「会古路地」(写真6)がありました近くにあった2つの私道の袋小路を、役所が土地を買い取ってつなげ、余った土地を一言会が路地尊として有効活用したものです。2つの路地がつながって「出会う路地」、黒塀と笠付裸電球の照明がある電柱など、昭和の下町の雰囲気が醸し出された「古いものに出会う路地」、雨水で鉢植えに水をやり、下水道汚泥を焼いた煉瓦舗装や空き缶の保管ボックスがある「エコロジーな路地」、二重三重の意味を掛け合わせた粋な名前です。

(左)和菓子店の店先にある季節の草花のなかに路地琴がおいてあった。金魚鉢の水を上のお皿に入れると、竹筒から水が跳ねるような音が聞こえた。(中)ゆっくり草花を鑑賞したい向島百花園。池の水と緑に東京スカイツリーが映える。(右)レトロな雰囲気を醸し出す路地尊「会古路地」。ここも民家の屋根から雨をいただいている。黒塀の上に斜めに見える雨樋から地下タンクに入る。コブクザクラとマメザクラが満開。

(左)写真4:和菓子店の店先にある季節の草花のなかに路地琴がおいてあった。金魚鉢の水を上のお皿に入れると、竹筒から水が跳ねるような音が聞こえた。
(中)写真5:ゆっくり草花を鑑賞したい向島百花園。池の水と緑に東京スカイツリーが映える。
(右)写真6:レトロな雰囲気を醸し出す路地尊「会古路地」。ここも民家の屋根から雨をいただいている。黒塀の上に斜めに見える雨樋から地下タンクに入る。コブクザクラとマメザクラが満開。

*3 天水尊:当会前会長の徳永暢男(故人)さんが、コミュニティで利用する路地尊に加えて、個人の家の雨水活用を普及するため開発したドラム缶タイプ、容量200ℓの雨水タンク。個人向け雨水タンクの草分け的存在で、雨を「天水」として尊ぶというネーミングは哲学的でもある。

白鬚神社→白鬚防災団地→災害用トイレ→隅田川神社→ (地図3

墨堤通りの方に向かって歩くと白鬚神社の鳥居が見えました。951年に近江国の白鬚大明神を勧請したのが起こりといわれ、5月には氏子が作った御幣を神様に供え、隅田川の川岸で洪水や渇水が起こらないように祈る雨にちなんだ祭典、ぼんでん祭が行われています。境内には天水尊が置かれていました(写真7)。

そのまま墨堤通りをしばらく北上すると、白鬚東防災拠点(都営白鬚東アパート、備蓄倉庫、公園他)が見えてきました。13階建て18棟の建物が一列に1.2㎞にわたって建ち並んで、まさに壁です(写真8)。関東大震災では東京で7万人が亡くなりましたが、そのほとんどが下町を中心とした火災で亡くなったのです。このことを教訓に、火災による延焼を防ぐことを主眼として30年あまり前に建てられました。いざというときは、各戸のベランダにシャッターが降り、その外はスプリンクラーや放水銃で水をかけるなど、防火の設備を徹底し、4万1千人の避難者を収容できる場所にもなっています。しかし、全体の雰囲気が要塞のようで、住んでいる人たちはいつも災害時には避難者を受け入れることを意識しなければならず、ちょっと辛いような気がしました。東日本大震災の時には、建物はびくともしませんでしたが、エレベーターが止まってしまい、自治会の役員が高齢者を高層階の住まいまで連れて行くのに大変だったそうです。

墨田区立桜堤中学校の北側には災害用トイレ(写真8)がありました。避難者のための備蓄倉庫もあり、トイレも大切な問題です。マンホールトイレ(*4)と言われているものの一種で、巨大な便槽が下にあり、穴から下に落として、たまった糞便はバキュームで汲み取る仕組みです。はたして災害時にバキュームカーが来れるのか不安になります。ざっと計算しても1日1人が1,500mlの排泄量とすると、4万人では1日あたり60トンずつたまっていくことになります。暑い盛りでは臭いも強烈になるでしょう。また、災害用トイレは1基あたり50~100人が目安と言われています。しかし、この防災拠点では1基あたり540人とあまりにかけ離れており(*5)、排泄を我慢して体調を壊す人が続出するのではないか、さらに不安に駆られました。また、すぐそばにある公衆トイレは水道水を使っており、建設当時は雨水活用の発想はなかったのでしょうか。2013年に竣工した隣の中学校は、262トンの雨水タンクがあり、少し救われる思いがしました。

公園の中ほどの川沿いのところに、隅田川神社(写真9)があります。現在は、かつての場所から100mほど南に移転して、要塞のような団地と高速道路に挟まれた味気ない場所ですが、源頼朝が関東下向の際(1180年頃)に、神の霊験を感じて社殿を造営したと伝えられている由緒ある神社です。また、この地が小高い浮洲となっていて、出水の時も水没することがなかったところから、「水神社」または「浮島の宮」とも呼ばれていました。河川交通の要衝であり、海運・運送業者の尊崇を集めていました。

(左)白髭神社境内の狛犬の後ろには天水尊 (中)壁のようにそそり立つ白鬚防災団地。手前煉瓦張りのスペースは災害時には10万人の避難者のための災害時用トイレ (右)水神社と言われる隅田川神社は、河川交通の象徴として「亀」が神使とされ、「水」が神紋とされたといわれている。

(左)写真7:白鬚神社境内の狛犬の後ろには天水尊
(中)写真8:壁のようにそそり立つ白鬚東防災拠点。手前のタイル張りのスペースは災害時には避難者のための災害用トイレ43個がある。他に隣接の中学校等に下水道管に直接流すマンホールトイレが33個ある。
(右)写真9:水神社と言われる隅田川神社は、かつては隅田川の終点で、鬱蒼とした森が広がっており、海運、運送業者の尊崇を集めていた。河川交通の象徴として「亀」が神使とされ、「水」が神紋とされたといわれている。狛犬ならぬ狛亀が…。今は高速道路と堤防に挟まれ、隅田川は見えない。

*4 マンホールトイレ:災害時に避難場所で避難者が利用するトイレとして、備蓄が容易で水洗トイレに近い環境といわれるマンホールトイレを国土交通省が推奨している。各々パネルやテントで仕切りをして便器を設置し、下水道管や便槽につなげて、し尿がたまらないようにする仕組み。普段は鉄蓋で塞いでいる。下水道管につなげるタイプのものは、管にたまったし尿を下水道まで流すための水を必要とし、放流先の下水道管の流下能力や耐震化対応などの条件がある。白鬚東防災拠点の公園内にあるもの(写真8の拡大写真)は便槽型のマンホールトイレで、鉄蓋を開けてそのまま和式便所として利用し、その下に280㎥の便槽2基が設置されている、いわゆる「汲み取り式」である。

*5 災害用トイレの数:「マンホールトイレ整備・運用のためのガイドライン」(H28年3月、国土交通省水管理・国土保全局下水道部)によれば、災害時のトイレは50~100人に1基を目安としている。白鬚東防災拠点は、741,000人の避難者を収容する計画となっており、現在76基(東京都43基、墨田区33基)の災害用トイレがあり、540人に1基の計算。

木母寺→多聞寺→鐘ヶ淵駅 (地図4

同じ公園に梅若伝説の由来がある木母寺(もくぼじ)に立ち寄りました。梅若伝説は、平安中期、幼少期に人買いに連れ去られた京都の貴族の子、梅若丸が隅田川のほとりで12歳で亡くなり、里人が悼んで弔ったと伝えられ、謡曲「隅田川」(写真10参照)でもよく知られています。今でも毎年命日である旧暦3月15日(現在の4月15日)に梅若忌が行われています。この日に降る雨は「梅若の涙雨」と言われ、梅若を探して狂ってしまった母の涙なのでしょうか。

さて、最後のスポットは多聞寺(たもんじ)です。関東大震災や戦禍に遭わなかったため、昔日の面影を残す数少ない寺です。山門は、江戸期の木造建築で、区内最古の建造物と考えられています。多聞寺は雨水活用を積極的に取り入れている寺で、「雨水寺」とも呼ばれています。20年前に書院裏には1トンの雨水タンク11基(写真11)、さらに本堂と水屋の屋根から集めた雨を水屋下の10トンのコンクリートタンクを設置し、雨水を墓参用水(写真12)、散水、トイレ洗浄水として利用しています。

案内していただいた岸田正博(しょうはく)住職さん(写真13)は、「もともと多聞寺が水神社の別当寺で水に深く関係した寺でもあり、トイレの洗浄水も飲み水と同じ水道水を使っているのはどうにも『もったいない』、山奥に巨大なダムを作って雨は下水に捨てるというのは「都会のエゴ」だと思い、雨水活用を取り入れました。」と、設置した経緯をお話されました。使ってみて、雨のありがたさを再認識するとともに、空の汚れを含んだ雨水で便器が黒くなるのを見て、「きれいな水をください」という自然の声が聞こえるそうです。また、雨水設備が故障したり破損したりする経験を踏まえ、雨水活用の専門家や工務店の経験が足らないと感じておられます。行政側も雨水活用を進めるように窓口間の連携を図ったり、下水道料金の減免を検討するなどの積極的な取り組みをしてほしいとおっしゃっていました。お忙しい中、私たちの質問にも丁寧に答えてくださった岸田住職さんに感謝申し上げます。

最後は街中を鐘ヶ淵駅までぶらぶら歩き、駅で散会となりました。回りまわって出発点の曳舟駅から約4.8kmのまち歩きでした。お疲れ様でした。

(左)写真10:謡曲隅田川図(歌川豊広作。熊本県立美術館所蔵品データベースより掲載)。謡曲「隅田川」は、春の隅田川を舞台に、母子の情愛を描いた能舞台で、世阿弥の息子、観世元雅が室町時代に作ったと伝えられる。  (中)写真11:多聞寺書院の裏には1トンのポリエチレン製の雨水タンク11基が並んでいた。 (右上)写真12:「天水(雨水)です」のプレートが貼られている墓参用の蛇口 (右下)写真13:真言宗智山派隅田山多聞寺の雨水活用施設を岸田正博住職に案内していただく。

(左)写真10:謡曲隅田川図(歌川豊広作。熊本県立美術館所蔵品データベースより掲載)。謡曲「隅田川」は、春の隅田川を舞台に、母子の情愛を描いた能舞台で、世阿弥の息子、観世元雅が室町時代に作ったと伝えられる。 
(中)写真11:多聞寺書院の裏には1トンのポリエチレン製の雨水タンク11基が並んでいた。
(右上)写真12:「天水(雨水)です」のプレートが貼られている墓参用の蛇口
(右下)写真13:真言宗智山派隅田山多聞寺の雨水活用施設を岸田正博住職に案内していただく。

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