活動記録

雨タスサロン第1弾! 宗像信司さんが語る雨+「鳩の街74年史」

高橋 朝子(Webあまみず編集委員)

雨タスサロンは、テーブルを囲んでお酒とおつまみを楽しみながら、さまざまなテーマを 「雨・水」を通して読み解きます。各回の話し手が得意な話題を提供します。 気軽にドリンクを飲みながらワイワイガヤガヤ雨水談義を楽しむサロンです。会員でない方も大歓迎です。

雨水市民の会が事務所を構える、墨田区向島「鳩の街通り商店街」(図1参照)。90 年近い歴史の中でさまざまな変遷 をたどってきましたが、実は私たちも街のことをまだまだ知りません! そこで雨タスサロンの初回は、10月19日(水)、鳩の街で生まれ育って 74 年、雨水市民の会監査役も務める宗像信司さんに、 子ども時代の思い出や街と水の関わりなどについてお話しいただきました。

図1 現在の鳩の街通り商店街と本所と向島の境であった元古川が流れていた狭い道路

図1 現在の鳩の街通り商店街と本所と向島の境であった元古川が流れていた狭い道路

「私の子どものころは…」で始まった鳩の街の歴史。ふしぎなことにこの一帯は1923年の大震災でも焼け残り、1945年の東京大空襲でも焼け残ったところで、路地が迷路のようにある地域です。

1888年(明治21年)に東京市が誕生したとき、本所地域が本所区として東京市に、向島地域は南葛飾郡と別れていました。本所区と南葛飾郡(1932年(昭和7年)に向島区として東京市に編入)の境界は、今はない古川という小さな川だったそうですが、その場所がまさに事務局の1本裏の細い通りです。宗像さんの子どものころは、まだその川があったそうですが、その後まもなくふたがされ、見えなくなってしまいました(図1参照)。

写真1は1932年(昭和7年)頃の商栄会通り(現在の鳩の街通り)です。都電の終点が近くにあり、レガッタの学生たちが各大学の艇庫がある隅田川の川岸へ行くのに商栄会通りを抜けていっていき、とてもハイカラな街だったそうです。しかし、舗装もなく、排水路もないので、雨が降ると泥だらけでぬかるんだ道になっていました。

写真1 昭和7年頃の商栄会通り(=現在の鳩の街通り商店街) (写真は「墨田史談会会報」より、日野秀夫氏提供)

写真1 昭和7年頃の商栄会通り(=現在の鳩の街通り商店街) (写真は「墨田史談会会報」より、日野秀夫氏提供)

一方、近くにあった「玉の井」は、大正時代からは女娼街でしたが、東京大空襲で焼け出された業者が、商栄会通りの裏手に5軒引っ越してきて、商売を始めました。戦後は、隅田川沿いにあった大倉別邸が占領軍の慰安所となり、近くの鳩の街は米軍兵士の慰安施設としてにぎわったそうです。「鳩の街」は、兵隊さんが幸せになる、平和のシンボル「鳩」の通り=pigeon streetと言われたのが、名前のいわれだそうです。また、”外人さん”が多く利用するということで、いち早く下水道が敷設され、トイレは水洗でした。1952年(昭和27年)当時は、娼家が108軒、接客する女性が298人いたそうです(Wikipediaより)

宗像さんは、小学校、中学校とも地元だったので、娼家の前を通って通学したとのこと。さらにお母さまが喫茶店を営業していて、素直な(?)宗像さんは、よくおネエさんたちへ軽食の出前に行ったそうです。このような街の様子を題材に、永井荷風が戯曲に書いて、「『春情鳩の街』より渡り鳥いつ帰る」として映画化され、森繁久弥、田中絹代、高峰秀子、岡田茉莉子らが出演しました。私(=レポーター)はその映画を観たことはありませんが、年配の方たちはウンウンとうなずいていました。

兵士が性病に感染することが多いため、1946年に米兵の立ち入りが禁止され、その後、日本人相手の特殊飲食店街(赤線)となりました。1958年に売春防止法が施行され、鳩の街通りで商売をしていた業者たちは、さっと店をたたんだそうです。

最盛期は60件余りあった商店街ですが、建物の老朽化や跡取り問題などでシャッター化が進んでいます。しかし、最近では古い建物をリノベーションした個性的な新ショップも登場し、昭和のレトロな雰囲気と下町の気さくな人柄が作り出す雰囲気は、居心地の良い商店街です。事務局がここに移転してきてよかったと改めて感じました。雨タスサロンで飲んだり食べたりしながらで、少しリラックスして会員以外の方たちともおしゃべりするのもよいなあと思いました。

 

次回の雨タスサロンは、11月18日(金)19:00から山本耕平さんが語る雨+「トイレ」、12月14日(水)19:00~高橋朝子が語る雨+「講」です。チラシはこちら

« »